家具の世界

ファシズムとイタリア合理主義<後編>

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テラーニのグルッポ7とリベラのM.I.A.R

後の建築ならびにインダストリアルデザインの世界に大きな影響を及ぼすイタリア合理主義とファシズムの結び付きは、1926年の「グルッポ7」設立から強まったと言ってよいでしょう。

すでにモダニズム建築家として多くの作品を生み出していたジョゼッペ・テラーニ、学生時代からイタリア未来派と交流を持っていたアダルベルト・リベラ、さらにルイジ・フィジーニ、グイード・フレッテ、セバスティアーノ・ラルコ、ジーノ・ポッリーニ、カルロ・エンリコ・ラーヴァの計7名で結成された「グルッポ7」(グループ7)は、いわゆる「建築宣言」によって、当時の復古主義と論争を展開します。
グルッポ7の建築宣言は、フランスの建築家ル・コルビュジエの著書『建築をめざして』(1923年出版)の影響を受けていますが、コルビュジエが著書のなかで訴えたのは、「住宅は住むための機械」ということでした。

これはどういう意味なのか。たとえば船は海や川を渡るために、飛行機は空を飛ぶために、自動車は陸を走るために存在する機械です。対して19世紀までの建築は、主に柱や門、壁などに施された装飾ばかりに注目が集まっていました。
しかし住宅とは本来、人が住むために存在する――つまり住宅は、船、飛行機、自動車と同じく人が住むための機械と捉えなければ、建築の発展はないというのが、コルビュジエの考えでした。
それゆえに、住宅もそのなかで使われる工業製品も、人々の暮らしに合わせて使いやすいものが、かつ一般大衆が購入できる価格で大量生産されなければならない。

これがイタリア合理主義の根本にある概念なのです。

コルビュジェ

コルビュジェの代表作のひとつ、LC3ソファ

『建築をめざして』出版に先んじて、1914年にはイタリアの建築家アントニオ・サンテリアが『新都市』というデッサン画(ドローイング)を発表しています。
そこにはすでに駅、高層住宅を含めた、工業化・機械化による未来都市が描かれています。

サンテリアが『新都市』で描いた未来都市と、コルビュジエが『建築をめざして』で訴えた住宅の在り方を考えると、何か思い浮かぶはずです。
彼らが目指したのは、まさに現在、海外はもちろん日本国内でも展開されている都市計画、再開発事業ではないでしょうか。
駅を中心として高層の住宅、オフィス、ショッピングモールが並ぶことで、人々にとって暮らしやすい「まちづくり」が実現する都市計画の原点は、イタリア合理主義にあるといっても過言ではありません。

グルッポ7は、このモダニズム運動の先駆者として、また中心的存在として活動しました。ところが、1928年に創設メンバーの1人であったアダルベルト・リベラがグルッポ7を離脱します。
リベラはガエターノ・ミンヌッチらとともに、合理主義運動推進のため、1928年にローマで「イタリア合理主義展」を開催します。この展覧会の後に結成されたのが、M.I.A.R(合理主義建築のためのイタリアの運動)です。

展覧会のカタログに掲載された「展覧会序文」では、リベラはグルッポ7の「建築宣言」以上に「合理主義」という言葉を強く打ち出しました。
さらにリベラは1930年に第二回展覧会を計画するとともに、ムッソリーニのファシズム(結束)に合理主義建築への関与を求めます。
ところが展覧会の事実上の主催者と言われたピエール・マリア・バルディが、イタリア建築界の実力者マルッチェロ・ピアチェンティーニらを批判したこともあり、当初は後援を得ていた国家ファシスト建築協会とも対立。ムッソリーニに嘆願するも叶わず、翌1931年、M.I.A.Rは解散することに。

同じ頃、テラーニが設立したグルッポ7はといえば、「ファシスト建築集団」としてムッソリーニ政権下で理想の合理主義建築を実現させていきます。
リベラもまた、M.I.A.R解散後はムッソリーニ政権下で多くの公共事業を請け負いました。
いかにしてムッソリーニ、ファシストと共にあるか。建築およびインダストリアルデザインの世界も、ファシズム抜きには語れない時代となっていたのでした……。

合理主義と公共事業――ファシズムのもとに

1930年代に入り、イタリア合理主義運動は新たな展開を迎えます。

ムッソリーニ政権下の公共事業として、イタリア合理主義建築が発展していくのです。
たとえば、1936年にテラーニによって建設され、ファシスト党の本部として使用された「カサ・デル・ファッショ」(イタリア・コモ)は、イタリア合理主義建築の代表作と言われています。

他にもテラーニは「サンテリア幼稚園」(1936年)を建設した際、園内で園児が遊ぶための玩具も設計しました。サンテリア幼稚園は子どもたちのために、日差しを調整できる機能がついており、一方で玩具は子どもたちが楽しく遊べるよう愛らしいデザインに。
それは建築が人々の暮らしとともにあるという、まさにイタリア合理主義に基づく作品でした。

対してリベラも、1932年に「マルモラータ通りの郵便局」(ローマ)を完成させるなど、ファシズム政権下の公共事業で、多くの建築作品を残しています。
その最たるものは、1938年に建設がスタートした「EUR会議場」でしょう。

EUR会議場

EUR会議場

1935年、ムッソリーニは1942年に開催予定であったローマ万博博覧会に向け、ローマ近郊に“新都心”を建設させます。
駅、集合住宅、商業施設、公園、スポーツ施設、博物館……それらがひとつの場所に集う“新都心”こそ合理主義建築が目指した姿であったのでしょう。
こうした施設の中心には、ローマ万博博覧会の略称である「EUR」の名を冠したEUR会議場があり、その設計をリベラが担当することになったのでした。

しかし――1942年のローマ万博博覧会は開催されませんでした。
1939年、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことがきっかけで、第二次世界大戦が勃発。イタリアも参戦し、戦火が拡大していたからです。

大戦前、ムッソリーニ率いるイタリアは1936年にエチオピア帝国を、1939年にはアルバニア王国を併合するなど、他国を侵略していきます。
同時期、勢力を強めていたアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツとのつながりを強め、1937年には日本も含めた日独伊防共協定を締結。1940年には日独伊三国軍事同盟へと発展し、本格的に第二次世界大戦へと突入していくのでした。

この頃、合理主義建築家たちもファシスト党への入党を強制され、テラーニはなんとイタリア軍に参加し、戦地から建設現場へ指示を送りながら1940年、集合住宅「ジュリアーニ・フリジェーリオ集合住宅」を完成させています。

もうひとり、この時代のファシズムを語るうえで欠かせない人物がいます。1909年に「未来派宣言」を発表した詩人、フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティです。

マリネッティはムッソリーニが結成した「イタリア戦闘者ファッシ」に参加し、その後一度は思想の違いからムッソリーニのもとを離れるも、未来派の展覧会開催のため再びファシズムに接近し、1924年にはファシスト党に入党しました。
そして60歳という年齢で、なんとテラーニとともに対ソ連戦線にも加わっているのです。
当時のイタリア軍では、作家なども司令官として戦線に参加しています。もともと「結束」という意味を持っていた「ファッシ」、そしてファシズムはテラーニやリベラといった合理主義建築家たちの理想を飛び越え、「独裁」「侵略」といったイタリアを戦争へと導いた言葉として認識されるように……。

ところが、そんなムッソリーニとファシズムによるイタリアの第二次大戦への参戦は、失敗に終わるのです。

ムッソリーニ失脚、テラーニとリベラは……

ムッソリーニは当初、第二次大戦への参戦には慎重な姿勢を示していましたが、ナチス・ドイツが電撃作戦によりフランス・パリを陥落させたことを知り、ムッソリーニは急遽ドイツ軍と協力して参戦することを決めました。
しかし軍備・物資の両面で準備不足のままイギリスをはじめとする連合国軍と対峙することになり、戦況は悪化の一途をたどります。
そんななか1943年7月、ファシスト党内でクーデターが発生。ムッソリーニは戦況悪化の責任を追及され、7月25日に首相を解任。独裁権や統帥権も奪われて失脚します。

戦争終結その後、幽閉されたムッソリーニはナチスによって救出され、ヒトラーのもとに身を寄せます。ナチスの支援を受け、北イタリアに「イタリア社会共和国」を樹立しますが、ナチスの傀儡政権であったうえ、イタリア軍に敗れたムッソリーニは政治亡命のため、スイスからスペインへ向かいます。
しかし道中でパルチザンに捕えられ、非公式な銃殺刑に処せられました。その遺体がミラノのロレート広場に晒されたのは1945年4月29日のこと。その翌日、ドイツではソ連軍の侵攻により劣勢に立たされたヒトラーが自殺し、ヨーロッパ戦線は終結するのでした。

ファシズムの終焉とともに、イタリア合理主義建築運動も新たな局面を迎えていました。
重要人物のひとり、ジョゼッペ・テラーニは奇しくも、ムッソリーニが失脚する6日前……1943年7月19日、39歳の若さでこの世を去りました。
建築家としての活動は、グルッポ7の設立からわずか13年。1940年の「ジュリアーニ・フリジェーリオ集合住宅」が最後の作品となっています。
また、「未来派宣言」の詩人、マリネッティはムッソリーニのイタリア社会共和国に協力するも、1944年12月2日に死去。
ムッソリーニの処刑は1945年4月29日……この時系列に、時代の大きなうねりを感じざるをえません。

さて、もうひとりの重要人物、アダルベルト・リベラはどうなったのでしょうか。
ファシスト政権下で多くの公共事業を手掛けていたリベラは、ムッソリーニ失脚後は故郷で暮らしながら戦後の1950年、建築家としての活動を再開しています。

EUR地区

EUR地区

そんなリベラは1954年、ひとつの代表的な作品を完成させました。それはムッソリーニのファシスト政権下で建設がスタートされた、前述のEUR会議場です。
今もなお、イタリアの首都ローマで「EUR地区」と呼ばれる新都心の中心には、リベラが手掛けたEUR会議場がそびえ立っています。
他にもリベラは戦後に数多くの集合住宅やオフィスビルの建設に関わりながら、1963年3月17日、その生涯に幕を閉じました。

このように、イタリア合理主義はムッソリーニのファシズムとともに発展しました。彼らの都市計画は戦後――まるでナチズムが今もなおタブー視されるように――否定される部分もありましたが、現在は再評価され、世界各国で都市開発が進められています。
そもそもイタリア語の「ファッシ」は「束」という語源から、集団的な結束を意味する言葉へと転じていきました。ムッソリーニも当初は「チーム」という意味合いで「ファッシ」を用いていたようですが、それはいつしか「ファシズム」という、今では独裁や他国の支配という意味で認識されている政治思想へと変わっていきます。

一方、ムッソリーニとともにあったイタリア合理主義建築家にとっての「ファッシ」とは何だったのでしょうか。
もしかすると、人々の暮らしと建築が結びつくこと、または駅や高層住宅、商業施設などがひとつの場所に集結する新都心こそが、彼らにとっての「ファッシ」(結束)であったのではないでしょうか。
ムッソリーニが、戦争ではなく公共事業という側面で彼らイタリア合理主義建築家の協力を仰いだことが、それを証明しているようにも思います。
そんなテラーニやリベラらイタリア合理主義の理想は、世界各国の都市開発とともに各分野へ波及し、現在の人々の暮らしを支えています。

イタリア生活

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