家具の世界

ファシズムとイタリア合理主義<前編>

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

20世紀のマリネッティと未来派宣言

建築およびインダストリアルデザインの世界は、常に人々の生活とともにあります。
建築とは人が住む場所を作ることであり、家具をはじめとするインダストリアルデザインは人々が日常のなかで使うものですから、それも当然のことといえるでしょう。
しかし、20世紀に入るまでその「人々」とは、一般大衆ではなく、一部の限られた富裕層を指していました。

たとえば現代でも知られているロマネスク(11世紀後半~)、ゴシック(12世紀~)、ルネサンス(15世紀~)、バロック(17世紀~)、ロココ(18世紀~)といった美術様式(あるいは美術運動)は、時の権力者の庇護を受けた美術家たちが、その権力者たちのために作品を作り上げるケースが多かったからです。

古来より洋の東西を問わず宗教が人々の生活と結び付いており、権力者はいわば芸術家のスポンサーとなり、自らの権力を人々に誇示するため豪華絢爛な建物(宗教的な礼拝堂など)や家具を生み出していったのは否めません。
いわば中世の芸術とは、当時の封建社会が産み出したものでした。

ロココ家具

ロココ調の家具

一方、20世紀に入り、そんな芸術や建築・インダストリアルデザインの世界は、その中心が権力者から一般大衆の手に移っていきます。
時代区分が中世から近世、近代へと移行していくなかで、ヨーロッパを支配している王家の力が次第に弱体化し、一般大衆の生活も徐々にではありますが豊かなものになりつつありました。
その傾向は18世紀末にフランス革命が起こり、当時のフランスの王政が崩壊して、市民が国政に関わるようになったことも大きいでしょう。

そして20世紀を迎えたイタリアにて、後の建築およびインダストリアルデザインの世界に大きな影響を及ぼす、「革命」とも呼ぶべき出来事がありました。
1909年、イタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが、フランスの新聞「フィガロ」にて、ひとつの芸術思想文書を発表します。
『未来派主義創立宣言』。通称、「未来派宣言」と呼ばれるものです。

この「未来派宣言」に端を発し、ここからイタリアを中心とした「未来派運動」が起こります。
「未来派運動」とは、過去の芸術の破壊と、機械化による各産業の発展を謳うものでした。
18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命により、国政が王家や貴族から民衆も参加するものになっていくと同時に、経済体制も封建社会から資本主義社会へと変貌していきます。
資本主義社会によって一般大衆、労働者にも富を持つ者が現れ、それに伴って各産業が一般大衆を対象として発展していくのもまた必然であったでしょう。
そんな時代背景があり、「未来派宣言」によって建築およびインダストリアルデザインの世界もいわゆる「モダニズム」へとつながっていくのです。

そんななか、マリネッティの母国イタリアでも時を同じくし、大きな時代の変革が起こります。
1909年の「未来派宣言」の直前、2人の人物がこの世に生を受けます。ひとりは、アダルベルト・リベラ(1903年生まれ)。もうひとりはジョゼッペ・テラーニ(1904年生まれ)。このリベラとテラーニが、後にイタリアのモダニズムと合理主義の中心人物として活躍します。

モダニズム家具

モダニズム家具

同時に、イタリア国内では政治の面でも大きなうねりを見せていました。あのベニート・ムッソリーニと、ファシズムの誕生です。
ムッソリーニとファシズムにより、イタリアは戦争への道を突き進むこととなり、芸術、建築、インダストリアルデザインの世界もまた、ファシズムと戦争に飲み込まれていくことになります……。

ムッソリーニの台頭とファシズム誕生

1883年、ベニート・ムッソリーニはイタリアの小さな村で生まれました。

ローマ

イタリア・ローマ

18歳の時、イタリア社会党の党員になるとともに、小学校の教諭として働き始めるものの、すぐに退職し、隣国スイスへと移ります。
そこでムッソリーニは、スイスに亡命中であったロシアのウラジミール・レーニンと出会います。レーニンは後にロシア革命の指導者となり、世界初の社会主義国家ソビエト連邦を作った人物です。この当時、すでにレーニンはマルクス主義者としての運動を開始していました。

ムッソリーニはレーニンから多くのことを学び、翌年からスイスのイタリア語圏で労働運動を開始します。さらに活動の場をオーストリア、そして母国イタリアへと移し、各国政府から要注意人物としてマークされながらも、次第に政治家としても注目を集めていきます。
イタリア国内ではムッソリーニが所属する社会党が勢力を強め、ムッソリーニもまた党内で権力を持つようになりました。
ここでムッソリーニ、あるいはイタリアそのものの歴史を変える出来事が起こります。1914年、第一次世界大戦が勃発したのです。

国内のみならずイタリア社会党内でも大戦への参戦派と反戦派に分かれ、反戦派が主流を占めるようになりました。対してムッソリーニは、強硬に参戦を主張します。
当時はまだイタリアも王家を軸とする封建社会であり、ムッソリーニは戦争への参加により体制の打倒――つまり革命を起こそうとしたのだと言われています。

結果、ムッソリーニは反戦派が主流であった社会党から除名処分となりますが、イタリアは第一次世界大戦に参戦、1918年に戦争は終結し、イタリアは戦勝国の地位を獲得しました。
ムッソリーニ自身も第一次大戦ではイタリア軍に参加していましたが、終結の翌年、従軍者とともに新政党「イタリア戦闘者ファッシ」を結成します。
かの有名な「ファシズム」という言葉は、ムッソリーニが大戦参戦を主張していた頃から存在していましたが、ムッソリーニにとってのファシズムは、名実ともにこの新党結成とともに開始されます。
では、そもそもファシズムとは何なのでしょうか。

ファシズム

一般的にファシズムとは、「独裁」の一種であると言われ、特に独裁によって国民を抑え、他国を侵略する思想というふうに受け取られています。
後に起こる第二次大戦の結果から見れば、そう見られることを否定はできません。間違いなくムッソリーニのファシズムは独裁と侵略を行っていたのですから。

しかし、ムッソリーニにとってのファシズムとは、そもそも「国家の強さ」を証明し国家を維持することでもありました。
そのために彼は単なるナショナリズムだけでなく、国家主義、帝国主義、社会主義といったあらゆる思想を統合した、新たな政治思想を作り上げます。それがファシズムでした。

もともとイタリア語の「ファッシ」とは、「結束」という意味の言葉です。
少なくともムッソリーニが当初、目指したファシズムとは国家の結束であったのでしょう。それが後に独裁へとつながっていくわけですが……。
もう一方で、ファシズムにおいて注目すべき点があります。それは、「ファッシ」という言葉を最初に政治用語として使い始めたのは、ムッソリーニではないということです。

「ファッシ」という言葉を用い始めた代表的な人物は誰か。
まず1908年、哲学者ジョルジュ・ソレルが著書「暴力論」のなかで、労働者階級による変革を支持し、ムッソリーニもこのソレルから大きな影響を受けたと述べています。
翌年、前述の詩人マリネッティが「未来派宣言」を発表するわけですが、それもまたソレルの「暴力論」に影響されたと言われています。
このマリネッティが1914年に設立した組織「国際行動のための革命ファッシ」が、最初に「結束」という意味でのファッシという言葉を、最初に政治目的で用いたと言われ、以降イタリア国内でも「ファッシ」というチームが続々と結成されます。
ムッソリーニも設立の年にマリネッティのファッシに参加し、これが1914年に誕生した「イタリア戦闘者ファッシ」へと発展していきます。

反対にマリネッティもムッソリーニのファッシに参加することで、ファシズムとイタリア・モダニズム、イタリア合理主義はその結びつきを強めていきます。
1921年にはムッソリーニは政界入りして、「イタリア戦闘者ファッシ」を正式な政党化し「ファシスト党」を結成。さらに翌1922年にはクーデターに成功、ムッソリーニはイタリア国王の支持を得て臨時政権を樹立し、独裁体制を確立させていくのでした。

ジョゼッペ・テラーニとアルベルト・リベラ

イタリア国内のモダニズム運動において、1926年には後にイタリア合理主義において重要な位置を占める2人を中心として、ある組織が結成されています。
その組織は「グルッポ7(セッテ)」といい、中心人物の2人とはジョゼッペ・テラーニとアダルベルト・リベラです。

テラーニは1904年4月、イタリア北部の町で生まれたあと、工科学校を卒業し、ミラノで建築を学びます。1927年には兄弟とともに建築事務所を開き、都市開発に従事していました。

一方のリベラは、テラーニ誕生より1年早く、1903年7月に同じくイタリア北部の町で生まれています。美術大学、建築専門学校在学中に、イタリア未来派と交流しており、彼も建築活動において未来派の影響を色濃く受けていました。

このテラーニとリベラ、さらにルイジ・フィジーニ、グイード・フレッテ、セバスティアーノ・ラルコ、ジーノ・ポッリーニ、カルロ・エンリコ・ラーヴァという7人の建築家によって、「グルッポ7」(グループ7)が創設されます。
グルッポ7は、当時のイタリアにおけるモダニズム建築運動の中心となります。グルッポ7が展開したモダニズム運動は、未来派の影響を受けながら、それとは少し異なるものでした。

マラパルテ邸

アダルベルト・リベラが設計したといわれるマラパルテ邸(異説あり)

当時の芸術界には「復古主義」と呼ばれる思想が存在しました。端的に言えば「現代より過去のほうが優れており、過去を復古させる」という考え方です。
対して未来派の思想は、「過去の芸術の破壊」、復古主義が主張する過去を否定しています。
しかしグルッポ7の主張は、過去を完全に否定するのではなく、それらを伝統として受け継ぎ、新しいものを作り上げていくというものでした。

とはいえ、もちろん復古主義とグルッポ7の思想は完全に違います。グルッポ7は復古主義を非難し、論争を行っていきますが、なんと1928年にリベラがグルッポ7を脱退。新たにM.I.A.R(イタリア合理主義建築運動)を設立します。
グルッポ7のイタリア・モダニズム運動と、M.I.A.Rのイタリア合理主義運動はライバル関係となりますが、その活動には大きな特徴と共通点がありました。

それはムッソリーニのファシズムとの結び付きです。

グルッポ7の「伝統を受け継ぎ、新しいものを生みだす」という思想は、まさにムッソリーニの「結束」という意味でのファシズムと同じでした。
ムッソリーニは自身が権力を掌握すると、国家政策として彼らのモダニズム運動を支持し、建築の分野で全面的にその思想を取り入れます。
M.I.A.Rもまた、1930年代にはムッソリーニ政権下で数々の公共事業を手掛けています。

こうしてイタリアのモダニズム運動と合理主義運動は、ファシズム体制下で拡大し、後世に残る建築物を生み出し、それに基づくインダストリアルデザインが誕生するに至りました。
第二次世界大戦という、大きな戦火に巻き込まれながら――。
<続く>

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。