家具の世界

ル・コルビュジェとドミノシステム<後編>

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GRANDCONFORT(大いなる快適)

コルビュジェの代表作 LCシリーズ

スイス生まれのフランス人建築家、ル・コルビュジェが1914年に発表した鉄筋コンクリートによる住宅建築手法「ドミノシステム」、1923年に出版された著書『建築をめざして』、さらに彼が打ち出した「近代建築の五大原則」は、今もなお世界中の建築およびインダストリアルデザインに大きな影響を及ぼしています。

一方、コルビュジェの「名作」は建築物だけにとどまりません。コルビュジェが設計した建築物のなかに置かれる家具――それはGRANDCONFORT(グランフォート、大いなる快適)と呼ばれ、なかでもLCシリーズは最も有名です。

LCとはル・コルビュジェ(Le Corbusier)のイニシャルであり、彼にとっても数々のインダストリアルデザインのなかで「代表作」との評価を受けています。
シリーズにはLC-1から8まであり、LC-1(スリングチェア)はニューヨーク近代美術館の永久展示品に、LC-2はコルビュジェの代名詞とも言われるソファーで、自身の建築物に最も似合い、かつ最新の素材を使った機能性の高い作品となっています。

LC3

コルビュジェの代表作、LCシリーズ

LC-3はLC-3よりもさらにゆったりと座りやすいソファーとして作られ、コルビュジェのインダストリアルデザイナーとしての名を高めたLC-4は、人々が暮らしのなかでゆっくり休めるように設計された椅子でした。
LC-4を実際にデザインしたのはコルビュジェの弟子の一人シャルル・ペリアンでしたが、ペリアンはコルビュジェのコンセプトをもとに、人が休息するために最も適した角度、材質を研究し、この椅子を作り上げたのです。
その後LC-5(ソファー)、LC-6(ダイニングテーブル)と続いたシリーズは、LC-7(ダイニングチェア)によって頂点を迎えます。

このダイニングチェアはコルビュジェ、建築事務所をともに設立した従兄弟のピエール・ジャンヌレ、そしてLC-4をデザインした弟子ペリアンの共作です。
1929年に開催された「サロン・ドートンヌ展」(現在も続く、フランスの美術展覧会)で共作LC-7をはじめとするLCシリーズは高い評価を受けました。さらにコルビュジェは以降、多くの都市開発計画を手掛けていきます。

コルビュジェと二度の世界大戦

サロン・ドートンヌ展に先駆け、1927年にはドイツ工作連盟の住宅展「ヴァイセンホーフ・ジードルング」に参加し、1928年からスタートしたCIAM(シアム、近代建築国際会議)ではヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなど近代建築の巨匠たちとともに、国際的な近代建築運動の中心メンバーとなります。
こうして建築およびインダストリアルデザインの世界でコルビュジェが大きな役割を果たしていくのに対し、活動の場のひとつであったドイツ工作連盟が1933年に解体されてしまいます。

1914年に勃発した第一次世界大戦が1918年に終結して以降、ドイツで勢力を伸ばしていたアドルフ・ヒトラー率いるナチスが同年に政権を奪取。ドイツ工作連盟や教育機関バウハウスに共産主義の疑いをかけ(ヒトラーは共産主義、マルクス主義を敵視していた)、解体してしまうのです。
ナチス・ドイツは1939年にポーランドへ侵攻、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始まります。
ドイツ軍は電撃作戦によってヨーロッパを手中に収めていくなか、1940年にフランスの首都パリを占領。ここから1945年の終戦まで、フランスはナチス・ドイツに支配されました。
コルビュジェもまた、そんな戦火のなかで活動していくことになります――。

フランス×ドイツ因縁の戦争、終結へ

第一次世界大戦、勃発

1940年のドイツによるフランス占領まで、隣接している両国の間には長い因縁がありました。

4世紀からフランス、ドイツ、イタリアといった地域はフランク王国というひとつの国家が支配していましたが、843年にフランク王国が三分割され現在のような形となります。
その後、フランスとドイツの因縁が深まるのは1870年7月から翌71年5月まで続いた普仏戦争でしょう。
当時ナポレオン三世が皇位に就いていたフランスと、オットー・フォン・ビスマルクが首相を務めていたプロイセン(ドイツ)の間で、スペイン王位継承問題に端を発した戦争が起こります。これが普仏戦争です。

プロイセン軍の強さは凄まじく、パリを占領されたフランスは降伏。分裂していたドイツも統一され、ドイツ帝国が成立する一方、フランスは50億フランという巨額の賠償金を課されたうえ、一部の地域はドイツの領土となりました。
フランスはドイツに対し「復習主義」を掲げ、両者の緊張は戦後も続きます。

フランスとの戦いに勝利したドイツはヨーロッパ大陸で勢力を強め、普仏戦争から40年後、1914年6月に発生したサラエボ事件に絡み、同年8月にロシアとフランスに宣戦布告。
同時期にドイツと対立を深めていたイギリスはフランスに協力し、ここに第一次世界大戦が始まりました。

世界の世論はドイツへの非難が主になり、アメリカの参戦もあってイギリス、フランスら連合国軍が優勢となり、ドイツ国内でも1918年11月に革命が起きてヴァイマール共和制が成立。そのままドイツは連合国側と休戦協定を結びました。
翌1919年1月からパリ講和会議が行われ、同年6月にはヴェルサイユ講和条約が締結。フランスを中心として連合国側はドイツに巨額の賠償金を要求します。フランスにとっては、普仏戦争の報復的な意味合いも持っていたとされています。
しかしそんな両国の関係は、新たな戦争の火種を生むのでした。ドイツ国内でのヒトラー率いるドイツの台頭、そして第二次世界大戦の勃発です。

ナチスとコルビュジェ

敗戦の影響で経済的に不安定となったドイツで、労働者の支持を得てナチスが1933年に政権を奪取。ヒトラーは政治的な全権を握り、1939年9月にポーランドへ侵攻します。イギリスとフランスは、ドイツに対して宣戦布告しました。ナチス

ところが翌1940年5月からのナチス・ドイツの進撃により、パリは陥落。同年6月には休戦協定が結ばれ、フランスは主権国家としての政府存続は認められたものの、ヴィシー地域に設置された新フランス政府は、ナチスによる傀儡政権でした。これを「ヴィシー政権」と呼びます。

建築およびインダストリアルデザインの世界に話を戻せば、フランス国内が混乱を極めるなかで、52歳になっていたコルビュジェはヴィシー政権に接近します。また、都市開発を進めていたイタリアのファシスト、ムッソリーニとも接触していました。
そうしてコルビュジェが建築家としての仕事を欲し、生き残ろうとするなか、盟友であった従兄弟のジャンヌレは袂をわかち、フランス国内でナチス・ドイツとヴィシー政権に対するレジスタンンス運動に身を投じています。

戦争は1944年6月のノルマンディー上陸作戦からドイツが劣勢となり、8月末にレジスタンスの手によってパリは解放。ヴィシー政権も崩壊し、臨時政府が樹立されたのでした。
翌年4月29日にイタリアのムッソリーニが銃殺刑に処され、翌日にはヒトラーが自殺し、さらに8月、日本が降伏したことで第二次世界大戦は終結します。

戦時中、コルビュジェの活動は成果を生み出すことができませんでした。それは戦争をきっかけに盟友ジャンヌレと袂をわかったのも影響を及ぼしているかもしれません。
しかし戦後、コルビュジェはジャンヌレと再びタッグを組みます。場所はインドのチャンディーガル。それはアジアにおける大都市計画でした。

戦後のコルビュジェ――日本にも足跡を残す

インドでコルビュジェが残したもの

1945年、第二次世界大戦が終わると、それまで欧米の植民地であった国々が次々と独立を果たしました。
イギリスの植民地であったインドもそのひとつ。終戦から2年後の1947年に、パキスタンとの分離独立という形ではありましたが、イギリス連邦からも離れています。

当時の首相ネルー氏は新たな首都を作るため、デリーから北に240km離れたところにある地域に大都市の建築を計画。その新しい都市は「チャンディーガル」と名付けられました。

チャンディーガル

インド・チャンディーガルの立法議会

当初、都市建設計画はアメリカ人建築家アルバート・メイヤーが担当していましたが、途中で計画は頓挫し、新たに担当者として選ばれたのが、62歳になっていたコルビュジェでした。
そしてコルビュジェは共同作業者に、戦時中に袂をわかっていた盟友ジャンヌレと、ほか2人の建築家を指名します。

ここに、1920年代に建築およびインダストリアルデザインの世界に大きな影響を与えた2人のタッグが復活するのでした。

コルビュジェはメイヤーの原案をふまえながら大幅に計画を刷新し、チャンディーガルに大規模都市を築きあげます。
42のセクターに分けられた都市には、住宅街、ホテル、ショッピング街、美術館などがあり、その中心・セクター1には「キャピトル・コンプレクス」が置かれています。
キャピトル・コンプレクスには行政機関や裁判所があります。それらは、誰もが人目見て「コルビュジェらしい」と思える建築物ばかりです。
ほかにもコルビュジェは「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」(1947~1952年)、「ロンシャンの礼拝堂」(1955年)、「トメニヤン修道院」(1957~1960年)など数多くの建築作品を残しています。

コルビュジェが設計し、弟子が作ったのは――

そのコルビュジェの作品が、この日本にもあることはご存じでしょうか。
1959年に東京都・上野公園内に設立された「国立西洋美術館」です。

国立西洋美術館

東京・上野の国立西洋美術館

これはコルビュジェが設計し、彼の弟子たちの手によって完成しました。コルビュジェの弟子とは、日本人建築家でした。
そして2016年7月、国立西洋美術館は他のコルビュジェの作品とともに世界文化遺産に登録されています。
過去、アールヌーヴォー期を代表するアントニ・ガウディの作品群のように、一人の建築家の設計による建築物を一括して世界文化遺産登録することはありました。ただし、認可されたのは全てスペイン国内にある建築物です。
コルビュジェの建築物については、世界7カ国を股にかけた17の作品が世界文化遺産に登録されており、これは史上初の快挙でした。

コルビュジェの建築およびインダストリアルデザインの思想は、1920年代から「インターナショナル・スタイル」と呼ばれ、文字通り世界中のモダニズム建築に影響を与えてきました。特に1960年代には「アメリカモダン」が成立し、この時代にモダニズムは頂点を迎えています。
著書「建築をめざして」で述べたように、コルビュジェにとって住宅とは「住むための機械」であり、鉄筋コンクリートによる住宅の設計、さらには新たな金属を用いた家具の制作――その目は常に、時の権力者ではなく一般大衆の暮らしに向けられていたのです。
コルビュジェのスタイルは戦後も変わることなく、インドの大都市計画から日本の美術館まで、現在もコルビュジェの思想は世界中で受け継がれています。
1965年8月27日、コルビュジェは海水浴中に心臓発作を起こし、亡くなりました。享年78歳。コルビュジェの偉大な功績は、生まれ故郷スイスでも、その肖像画と作品が描かれた10スイス・フラン札に刻まれています。

サヴォア邸

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