家具の世界

ル・コルビュジェとドミノ・システム<前編>

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権力の象徴――フランス美術史

近代建築の四大巨匠の一人 ル・コルビュジェ

家具とひと口にいっても、世界には様々な家具が存在します。そのなかで、人々が最も多く接する家具とはいったい何でしょうか?
その答えはきっと「椅子」であるはずです。
それが自宅であれ、職場であれ、はたまた出先のお店であれ――きっと日常生活のなかで、人が椅子に座らない日などない、といっても過言ではありません。
ゆえに椅子は家具のなかでも長い歴史を持ち、その時代に合わせて常に形を変え、人々の暮らしを彩ってきました。

現在、椅子と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、北欧デザインの椅子でしょう。特にスウェーデンのアルネ・ヤコブセンが1952年に発表した「アントチェア」は、「世界で最も売れたデザイン」と呼ばれるほど、世界中で知られている椅子のひとつです。
他にも北欧モダンと呼ばれる家具たちは、広大かつ厳しい自然のなかで暮らす人々が、いかにして快適に日常生活を送るかという視点で作られてきました。だからこそ今も世界中で、多くの人々に愛されていると言えます。

セブンチェア

アルネ・ヤコブセンの「セブンチェア」。1955年、「アント・チェア」の後継モデルとして発売された

そんな北欧デザインが誕生する直前、世界のデザイン界をリードし、数々のデザイナーに大きな影響を与えた人物をご存じでしょうか。
ル・コルビュジェ。本名をシャルル・エデュアール・ジャンヌレという、スイス生まれのフランス人建築家です。
フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウスとともに「近代建築の四大巨匠」と称されるこのコルビュジェが、建築家であるとともに家具の世界に多大な功績を残したのです。

ヴェルサイユ宮殿から産業革命へ

ここでまずは、コルビュジェが登場するまでのフランス家具の歴史に触れていきましょう。
古来より建築およびインダストリアルデザインの歴史は、その時期の政治・社会・文化とともにありました。

フランスもその例にもれず、時の支配者によってその時代の芸術様式は大きく異なります。
もともと「ガリア」と呼ばれていた現在のフランスは、中世に西フランク王国、さらにフランス王国として王政が確立します。
そのフランス王家の権力が強まったカペー朝を経て、12世紀に成立したヴァロア朝時代に始まったのが、「ゴシック美術」といわれる様式でした。この頃、フランスはイギリスとの百年戦争に突入し、あの有名なジャンヌ・ダルク伝説も生まれています。

続いてフランスはイタリアと戦うことになりますが、ここでヨーロッパ全土において強い権力を持っていたハプスブルグ家と対立。結果的にヴァロア朝は滅亡します。
当時はイタリアから「ルネサンス」と呼ばれる古代美術への回帰運動が起こり、他国に比べて範囲は小さいものの、フランスにもルネサンスの影響は及んでいました。
しかしヴァロア朝が滅び、ついでブルボン朝が誕生したところで、フランスの建築美術は大きく変わります。

フランス・パリのヴェルサイユ宮殿

なかでもルイ14世時代に建設されたヴェルサイユ宮殿は、今も知られるとおり豪華絢爛な、まさに当時の王家を象徴する建物。当然、そのなかに置かれた家具も豪華な装飾が施されたものばかりでした。

フランス王政は18世紀末のフランス革命によって倒れます。とはいえ、その後に生まれたナポレオンによる帝政期には、アンビール様式という古代ローマのような装飾を用いた美術様式が生まれています。

ここまでの美術様式は、形こそ違えどいずれの時代も、支配者が己の権力を誇示するための道具であったことが大きな特徴といえるでしょう。建築物であれ、家具であれ、その装飾が権力と富の象徴であったのです。

一方、フランスにとって海を隔てた隣国であり、かつて百年戦争を繰り広げたライバルでもあるイギリスでひとつの革命が起きています。
産業革命――18世紀半ばから19世紀にかけて、蒸気機関の開発によって工業制機械工業が成立、工業製品の大量生産が可能となり、建築およびインダストリアルデザインの世界にも資本主義の波が押し寄せることになります。
近代建築の四大巨匠のひとり、ル・コルビュジェは、そんな激動の時代のなかでこの世に生を受けました。

モダニズムデザインを生み出した男、ル・コルビュジェ

モリスと「アーツクラフツ運動」

ル・コルビュジェは1887年10月6日、スイスで生まれました。
時計職人であった父の跡を継ぐため、スイスの美術学校に通っていましたが、在学中に美術学校の校長の勧めで建築家の道を歩むことになり、1908年にパリのオーギュスト・ペレの事務所で、さらに1910年にはペーター・ベーレンスの事務所で建築を学びます。いずれも当時起きつつあったモダニズム建築を代表する人物でした。

コルビジェが誕生した当時のイギリスでは、産業革命の後、美術デザイン界に大きなうねりが起こっていました。
詩人であり、デザイナーでもあったウィリアムス・モリスの主導による「アーツアンドクラフツ運動」です。
産業革命は工業制機械工業によって大量生産を実現させ、一般庶民にも手が届くような安価な工業製品を生み出すことに成功しました。

ところが安価なゆえに低品質な製品が世にあふれることになってしまっていたのです。
そこでモリスは機械による大量生産から、手工業による質の高い、かつ人々の暮らしと直結した実用的な製品を作るようになりました。
このモリスの思想は「アーツアンドクラフツ運動」と呼ばれ、各国へと普及します。

コルビュジェが生み出した「ドミノ・システム」

アール・ヌーヴォー

アール・ヌーヴォー形式の家具

こうした運動に影響を受け、ヨーロッパ大陸で誕生したのが「アールヌーヴォー様式」でした。

ベルギーの雑誌で初めて用語として登場し、フランスの美術品店から発展したアールヌーヴォー様式の特徴は、美しい装飾と曲線を用いた造形です。この様式は建築物や美術品、家具に取り入れられ、ヨーロッパで一大ブームを巻き起こします。
しかしながら、コルビュジェが歩んだ建築デザインの道は、アールヌーヴォーとは真逆のものでした。

スイスからパリへ移って指示した建築家、オーギュスト・ペレは鉄筋コンクリート建築の先駆者であり、またペーター・ベーレンスはドイツ工作連盟で活躍しており、まさにコルビュジェはモダニズム建築の中心で建築を学んでいました。
さらにこの時期、1914年に勃発した第一次世界大戦が1918年に終結すると、建築およびインダストリアルデザイン界にモダニズムが波及していきますが、コルビュジェはそんな時代の流れに先駆け、1914年に画期的な発表を行います。それが「ドミノ・システム」です。

鉄筋コンクリート造、装飾のない壁、最小限の柱で構成された各階を階段でつなぐ。そのコルビュジェの概念は、文字通り合理主義であり、近代建築の礎を築きました。
このドミノ・システムによって建築物、特に集合住宅の大量生産が可能となり、以降の都市開発へとつながっていきます。
コルビュジェはその後、パリで鉄筋コンクリートを用いる建築会社に勤務したあと、1920年に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』を創刊(この頃から本名ではなくペンネームのル・コルビュジェで活動し始める)。
1922年には従兄弟のピエール・ジャンヌレと事務所を設立し、翌1923年には、モダニズム建築思想における代表的な著書を発表します。
著書の名は『建築をめざして』。この一冊から、新たな建築の時代が始まるのです。

パリ万博と「近代建築の五大原則」

住宅は住むための機械である

1918年の第一次世界大戦の終結以降、芸術や建築およびインダストリアルデザインの世界が、人々の暮らしと直結する動きが高まります。
1919年にドイツ・ヴァイマールに美術・建築の教育機関バウハウスが設立され、イタリアではファシズムとともにイタリア合理主義が始まりつつあり、革命によって世界初の主義国家ソビエト連邦が誕生したロシアでは、ロシア構成主義といわれる芸術運動が起こります。

そんななか、コルビュジェの『建築をめざして』には、モダニズム建築の方向性を決定付ける一文が記されていました。
「住宅は住むための機械である」
船は海や川を渡るために、飛行機は空を飛ぶために、自動車は陸を走るために存在する機械であり、同じように住宅も住むための機能が最も重要視されなければならない。
コルビュジェのこの思想は、世界中の建築家から注目を集め、特にイタリアモダニズムのもとに結成されたグルッポ7(セッテ)は、このコルビュジェの思想をもとに「建築宣言」を作っています。

さらにコルビュジェの思想を世に知らしめたのは、1925年に開催されたパリ万国博覧会(パリ万博)だったでしょう。
当時はモダニズム建築が波及し始めていたものの、建築およびインダストリアルデザインの世界の中心は、「アールデコ」と呼ばれる様式でした。

アール・デコ

アール・デコ様式の家具

19世紀末に最盛期を迎えたアールヌーヴォーが、古代の装飾と曲線の造形がその特徴であったのに対し、20世紀に入り広まったアールデコ様式は、幾何学的な装飾と直線的なデザインの製品が大量生産されるという、第一次大戦後の時代背景に則したものです。
パリ万博は正式名称を「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」といい、アールデコという言葉は「現代装飾美術」を指したため、パリ万博も「アールデコ博」と呼ばれました。

ところが、コルビュジェはこのアールデコ博に真っ向から挑んでいます。アールデコ装飾の展示品のなかで、コルビュジェは装飾がない集合住宅「レスプリ・ヌーヴォー館」を発表したのです。
建築物そのものから、なかの家具まで含めて大量生産が可能であり、かつ人々の暮らしと直結しているという、まさにコルビュジェの思想を表現する作品でした。
アールデコ博のなかではこのレスプリ・ヌーヴォー館は冷遇され、展示会場の隅に追いやられてしまいます。

しかしコルビュジェの活動はこれにとどまらず、1927年にはモダニズム建築に影響力を持つドイツ工作連盟主催の住宅展「ヴァイセンホーフ・ジードルング」に参加、翌年からは「近代建築国際会議(CIAM)」の中心メンバーとなりました。
CIAMは後の近代建築運動を支える組織となりますが、コルビュジェはこの近代建築運動において最も重要な思想を打ち立てています。
それは「近代建築の五原則」です。

「近代建築の五原則とは」?

コルビュジェが提唱した五つの原則は、

  • ピロティ(1階部分が柱のみで、駐車場などに使えるスペースがある2階以上の建物の形式)
  • 屋上庭園(建物の上層部に緑を起き、癒しを生み出す)
  • 自由な平面(鉄筋コンクリートによって自由な壁を作ることができる)
  • 自由な立面(支柱と壁を独立させることにより立面が構造の制約を受けない自由な形をとれるようになる)
  • 水平連続窓(立面が構造の制約をうけないため横長の窓を並べることが可能になり部屋が明るく、開放的なものになる)

この五原則に基づいて1931年に竣工された『サヴォア邸』(サヴォア夫妻の邸宅)は、コルビュジェの代表作となり、また「20世紀最高の住宅のひとつ」ともいわれ、1964年にはフランスの歴史遺産にも登録されています。

サヴォア邸

ル・コルビュジェの「近代建築の五原則」に基づいて建てられたサヴォア邸

他にも同時期に多くの建築物を手掛けているコルビュジェですが、このサヴォア邸には彼にとってもうひとつの「代表作」が置かれています。
「コルビュジェ・チェア」、建築家としてではなく、インダストリアルデザイナーとしても歴史に名を残すコルビュジェの作品は、ちょうどこの期間に次々と製作されていました。
もちろん、コルビュジェの理想とともに。

前述のアールデコ様式は、1930年頃にアメリカで最盛期を迎えますが、その後はモダニズムデザインに押され、いったん歴史の陰に隠れることとなります。
1929年10月24日、アメリカのウォール街(ニューヨーク株式市場)で株式が大暴落したことに端を発する大恐慌が世界を襲いました。
その結果として起こった第二次世界大戦と、ナチス・ドイツの脅威がフランスとコルビュジェを歴史の惨禍に巻き込んでゆくのです。
<続く>

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