家具の世界

バウハウス・激動の14年<後編>

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デッサウで迎えたバウハウス最盛期

1919年に誕生した、美術と建築に関する教育機関「バウハウス」は、ドイツ国内の政治体制の影響を受け、1925年にドイツ・ヴァイマールからデッサウへ移転しました。
ここでバウハウスは最盛期を迎えます。
初代校長ヴァルター・グロピウスが設計したデッサウの新校舎は、モダニズム建築の代表作と呼ばれました。さらに「総合芸術」という理想も具現化されていきます。
家具の分野においては、機械工業生産方式によって金属加工による上質な製品の大量生産が可能となりました。
たとえばひとつの家具を構成するパーツが「規格化」されることで、色や材質、形状などは様々なパターンの組み合わせが可能になり、しかも大量生産によって実用的な家具の低価格化が進んでいくのです。
そのモダニズム建築に基づいた工業デザイン(インダストリアルデザイン)は、文字通り現代の生活様式に繋がる――人々の暮らしと直結する家具の在り方の礎ともなっています。

バウハウス・ヴァイマール校

バウハウス・ヴァイマール校

1928年3月までバウハウスの校長を務めたグロピウスは、後継者にスイス人建築家ハンネス・マイヤーを指名しました。
マイヤーはバウハウスで、グロピウス以上に合理主義・機能主義を推し進めます。グロピウス時代にわずかばかりながら残っていた芸術性の一切を排するのです。
そんなバウハウスが生み出した製品は売り上げが伸び、利益を上げていきます。そしてマイヤー時代に初めて、バウハウスの経営は黒字化します。
特にバウハウスが手掛けたファッショナブルな広告デザインは、現代のグラフィックデザインに多大な影響を及ぼしていると言われます。
バウハウスの製品は、建築およびインダストリアルデザインにおいても、広告デザインにおいても大衆のニーズを掴んだのでした。

ハンネス・マイヤーの政治思想

デッサウ時代にバウハウス最盛期をもたらした、ハンネス・マイヤーとはどんな人物だったのでしょうか。
マイヤーは1889年11月18日、スイスのバーゼルという街で生まれました。
左官職、建築業を経て、1924年にハンス・ヴィトヴァーとともに建築事務所を設立。ジュネーブの国際連盟本部を設計するなど、スイスを代表する建築家に。
1927年からバウハウスの建築科のマイスターとなり、グロピウスが去った後のバウハウスの校長と建築科マイスターを兼任しています。
そうした華々しいキャリアとは裏腹に、マイヤーの政治的思想が彼とバウハウスに黒い影を落とし始めます。
なんと、マイヤーは共産主義者だったのです。

第一次世界大戦の真っただ中、1917年に史上初の社会主義国家、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国(後のソビエト連邦)が誕生しました。
大国ロシアでは20世紀に入ると革命運動が盛んになり、1905年1月9日には労働者の行進に対し、ロシア帝国の軍隊が発砲して死傷者を出すという「血の日曜日事件」が起こります。
結果、ロシア帝国とそれを支配する皇帝への不満が爆発し、国内で共産主義運動が活発となり、のちのロシア革命へとつながってゆくことに……。

レーニン

ロシア革命の指導者レーニンの像

さらに1914年から勃発した第一次世界大戦では、ロシア帝国はドイツ・オーストリアと対立する同盟国側でしたが不利な戦況が続き、国内経済は混乱の一途をたどります。
そんななか、共産主義運動の中心人物であったウラジミール・レーニンはポリシェビキ(後のソ連共産党)の指導者となり、大戦中にロシア帝国を打倒して、革命を成功させました。
ここから世界中に共産主義の風が吹き始め、各国は共産主義活動を抑えようとします。
ドイツも例外ではなく、マイヤーもバウハウスの校長を務めながらドイツ政府にマークされ、1930年にマイヤーはバウハウスを去ることになりました。
ちょうどこの頃、あのナチスが国内で勢力を伸ばしてきていたのでした――。

ナチスによってバウハウス閉鎖

ナチスが国内で勢力を伸ばした大きなきっかけは、1929年10月に発生した世界恐慌だったでしょう。
世界大戦の末、ヨーロッパ各国の経済が弱体化し、さらに大国ロシアが社会主義国・ソ連となり世界市場から離脱していました。
さらにアメリカの株価大暴落が引き金となり、世界的な大恐慌につながってしまいます。
ただでさえ世界大戦の賠償金の支払いなどにより、経済状況は決して良かったとはいえないドイツも、急速に景気が悪化します。街には失業者と、紙切れと化したマルク紙幣が溢れ、労働者の怒りの矛先は、ドイツ社会民主党による政府へ向けられるのでした。
そう、バウハウスを支持していた社会民主党政府へ……。

ヒトラー率いるナチスは、この機に乗じて1930年の国会選挙で、社会民主党に次ぐ第2党となります。さらに第3党であったドイツ共産党との政治闘争にも勝利し、1932年の国会選挙では遂に社会民主党を抜き、第1党となりました。
1933年1月30日にはヒトラーは首相に就任、同年3月24日にはいわゆる「全権委任法」を可決させ、8月には「総統」となり国内の権力を我がものとしたのです。
その間、ヒトラーは敵対勢力である共産党への弾圧を行い、その度合いは日を追うごとに増していきました。

ドイツ軍

そして第二次世界大戦へ……

そしてちょうどナチスが勢力を伸ばしていく最中の1930年、マイヤーはデッサウ市から解雇されています。理由は、1931年にナチス党員がデッサウ市の市長となったことで、バウハウスから社会主義色を排除しようとしたため、とも言われています。
マイヤーの後任には、近代建築の四大巨匠の一人、ドイツ人建築家のミース・ファン・デル・ローエが就任します。ローエは建築のみならず椅子の分野でも1929年、バルセロナ万博で発表したバルセロナ・チェアなど、現代も愛されるソファを生み出しています。
しかしちょうどこの頃、ドイツが国会で第1党となるとともに、バウハウスへの圧力をさらに強めていました。

「アーリア人至上主義」「反ユダヤ」「反共産主義」を掲げるナチスは、外国人教師の多かったバウハウスを標的にし、資金援助を打ち切るとともに学校の閉鎖を要求していました。
バウハウスを支持していた社会民主党、さらには共産党の力はどんどん弱まり、ナチスが第1党となった1932年、遂に国会でバウハウス閉鎖が決議され、同年9月を持って学校は解体されます。
ローエ校長はデッサウの学校が閉鎖されたあと、ベルリンで私校としてバウハウスを再開させるも、1933年にナチスと警察が学校を封鎖したため、ミースはバウハウスを閉校することを決定しました。
こうして近代建築・工業デザインの理想郷でもあったバウハウスは、14年間というあまりに短い歴史に幕を閉じたのでした……。

その後のバウハウス

さて、その後のナチスがどんな道をたどったかは、みなさんご存じでしょう。
1939年、ドイツのポーランド侵攻を発端に、第二次世界大戦が開戦。当初は快進撃を続けていた、ヒトラー率いるドイツ軍も次第に戦況が不利となり、1945年にヒトラーの自殺とともに敗戦。
ナチス自体が反共産主義を掲げていたにもかかわらず、ソ連と不可侵条約を結びながら、ドイツから条約を破棄。反対にソ連に侵攻されたことが崩壊のきっかけになったことは、皮肉な結果としか言いようがありません。
一方、バウハウスの人たちは、その後どのような人生を送ったのでしょうか。

初代校長ヴァルター・グロピウスは、ドイツ国内で建築家として活動しながら、1934年にイギリスへ亡命しています。
1937年にはアメリカ・ハーバード大学で建築学科の教授に就任し、かの有名なルーブル美術館のガラスピラミッドを設計したI.M.ペイや、アメリカ・モダニズム建築を代表する建築家フィリップ・ジョンソンらを指導しました。
第二次世界大戦後にはドイツ国内でも、数々の高層住宅・集合住宅を設計したあと、1969年7月5日、アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジで、86年の生涯を終えています。

2代目校長ハンネス・マイヤーはバウハウス校長を解任されたあと、ソ連に渡り建築教育家として活動しました。それだけでなく都市計画でも世界各国で活躍し、1954年7月19日に亡くなっています。
3代目校長ミース・ファン・デル・ローエもバウハウス閉鎖後はアメリカに亡命。大学教授を務めながら、幾多の超高層ビルを手掛け、近代主義建築の発展に尽力しながら、1969年8月に83歳で亡くなったのでした。

バルセロナチェア

ローエの代表作「バルセロナ・チェア」

実は第2次世界大戦中、ナチスの手から逃れアメリカに亡命するケースは多く、アメリカ航空宇宙局(NASA)初代所長、ヴェルナー・フォン・ブラウンもそのひとりです。
ブラウンは宇宙を目指してロケットエンジンの研究を行っていましたが、ナチスのロケット兵器開発に携わりながら、大戦末期にアメリカへ亡命しています。
その後、アポロ11号の月面着陸は、ブラウン率いるNASAによって成し遂げられました。
当時のドイツが、あらゆる分野で先駆的な活動を行っていたことは否定できません。それがナチスと戦争によって崩壊させられてしまったことが最大の悲劇なのです。

そしてバウハウスは世界へ――

モダニズム建築・インダストリアルデザインに話を戻せば、バウハウスの影響を最も強く受けた地域のひとつに、北欧が挙げられます。
もともと19世紀から椅子を中心とした、後世に残る家具を生み出していた北欧デザイン界ですが、20世紀に入り大衆の日用品製作をメインとした団体や組合が成立していったと言われています。
北欧といえば、その厳しい寒さで知られています。人々の生活は常に自然の脅威と共にありました。
そのため室内での生活が主となりますが、豊富な木々のおかげもあり、暮らしと直結したシンプルで使いやすい日用家具が作られ、日本はもちろん世界中で人気の「北欧家具」へと発展していきます。
人々の暮らしと直結する家具――それはまさにバウハウスが追い求めた、モダニズム建築に基づくインダストリアルデザインに他ならないのです。
材料でいえば、バウハウスは鉄、北欧は木と違いはあるものの、家具に対する想いは同じだったのです。

家具と生活

たとえばデンマークのアルネ・ヤコブセンは、「アントチェア」「スワンチェア」「エッグチェア」といった世界的ヒット作の椅子から、大規模リゾート計画まで手掛けた「北欧モダン」を代表するデザイナーです。
彼はそのスタイルにおいて、バウハウス3代目校長ミース・ファン・デル・ローエから影響を受けたと語っています。
ちなみにヤコブセンは1940年、生まれ育ったデンマークがナチス・ドイツに占領された時、スウェーデンへ亡命しています。
なぜなら彼はユダヤ人だったからです。
バウハウスとヤコブセン、モダニズム建築とナチス、これらが歴史的に絡み合った事実は、運命と言ってよいでしょう。

バウハウスの歴史は14年間と短いものでした。
第一次世界大戦からナチスの台頭に至るまで、歴史に翻弄されたことは悲劇としか言いようがありません。
しかしながら、グロピウスをはじめとするデザイナーたちの理想郷は、確かにあの学び舎にありました。
彼らが作り上げたモダニズム建築は、今もなお人々の暮らしとともにあり、そして未来へとつながっているのです。

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