家具の世界

バウハウス・激動の14年間<前編>

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ドイツの職人訓練制度Ausbildung

建築と家具は、常に人の生活とともに存在するものです。それゆえに、個人のみならず人類の歴史と深く関わってきたのが家であり家具であるとも言えます。
その歴史には、東西の洋を問わず数多くのマエストロ(マスター、マイスター)たちが関わってきました。
彼らは自らの作品で、時に新たな芸術を生み出し、時には新たな生活様式を作り上げています。
またその時代の権力者とも戦うこともありました。
そんな建築・家具に関わってきた人々の、熱い歴史を紹介していきたいと思います。

家具の歴史を考えるうえで、ドイツの存在をはずすことはできません。
ドイツにはAusbildung(アウスビルディング)という職業訓練制度があります。これは学校と企業が連携して、週40時間の研修を行い、3年かけて1人の職人を育てていくというシステムです。
対象となる技術職は多岐にわたり、左官職人、自動車製造、理容師、写真家、ファッションの裁縫など、あらゆる職人を対象としています。
もちろん家具職人も同様で、学校と企業で3年間の研修を行うことにより、修了後は現場で即戦力として仕事を進めることができます。
まさにドイツは職人の国といっても過言ではないでしょう。

職人

現在「家具」と聞けば、多くの人は北欧を思い浮かべるかもしれません。
なかでもデンマークやフィンランドの家具は日本でも人気が高く、かの大型家具店IKEAも発祥は北欧スウェーデンです。
そんな北欧家具のルーツも、ドイツにあることをご存じでしょうか。
話は今から約100年前、第1次世界大戦後のドイツにさかのぼります。
設立からわずか14年間でその活動に幕を閉じながら、後の建築およびインダストリアルデザインの世界に多大な影響を及ぼしたデザイン学校「バウハウス」に、現代家具のルーツが存在しているのです。
今回は、このバウハウスの歴史をご紹介しましょう。

第一次大戦後に教育機関バウハウス誕生

1902年、ドイツ帝国に招かれたベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデは、ヴァイマールに「工芸ゼミナール」を設立しました。この工芸ゼミナールはヴェルデによる私設の学校でしたが、1908年には「大公立美術工芸学校」、つまりドイツ帝国による公立の学校へと発展します。
ところが1915年、ヴェルデはドイツを去ります。それはドイツ工作連盟の中心人物であったヘルマン・ムテジウスとの衝突がきっかけでした。
1907年に機械化生産と製品の品質向上を目指して設立されたドイツ工作連盟。その連盟の中心人物であったムテジウスは製品の規格化による品質向上を推進したのに対し、ヴェルデは「芸術家の個性・芸術性」を擁護します(規格化論争)。
結果、ムテジウスを相容れないヴェルデは工芸学校をドイツ人の建築家のヴァルター・グロピウスに任せ、1915年にドイツ帝国を離れました。

ムテジウスとヴェルデの衝突とは別に、この時代にドイツとベルギーの間にも大きな問題が発生していました。
1913年、第一次世界大戦の勃発により、ドイツ帝国がベルギーへと侵攻し始めたのです。
ここから人類史上最初の世界大戦が、5年もの間続きますが、1918年11月、ドイツ帝国の敗北で第一次世界大戦は終結します。
そのきっかけはドイツ国内で起こった革命――いわゆる「ドイツ革命」でした。
同年11月3日、軍港の水兵たちの反乱に端を発した大衆的蜂起が、時の皇帝ヴィルヘルム2世の退位と、ドイツ帝国の崩壊をもたらします。これを「ドイツ革命」と呼びます。
第一次世界大戦後のドイツでは1919年1月に国民総選挙が行われ、多数の議席を獲得した社会民主党、中央党、ドイツ民主党が連立政府を樹立。同年8月に「ヴァイマール憲法」が制定・公布され、ドイツは議会制民主主義を採用したヴァイマール共和国と呼ばれるようになります。

バウハウスヴァイマール

バウハウス・ヴァイマール校

一方、ヴェルデから工芸学校を任されたグロピウスはというと、なんと彼もドイツ革命に参加していました。
革命の成功後には、ドイツ国内の各地で労働者による評議会が作られていましたが、同様に芸術家のための評議会も生まれ、グロピウスはその議団長に就任します。
さらに1919年、グロピウスがヴェルデから任されていたヴァイマールの「大公立工芸学校」と、1915年に閉校となっていた「ヴァイマール美術学校」が合併し、「国立バウハウス・ヴァイマール」設立され、グロピウスが初代校長に。
こうして、後にドイツの政治体制に翻弄されながら歴史に大きな足跡を残す、バウハウスの14年間が始まるのです。

初代校長ヴァルター・グロピウスとは?

ここで、バウハウスの創立者であり初代校長を務めた、ヴァルター・グロピウスとはどんな人物であったか触れておきましょう。

グロピウスは、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと並び、近代建築の四大巨匠の一人に数えられる建築家です。
1888年5月ドイツに生まれ、大学で建築を学び、卒業後は建築家ペーター・ベレンデスの事務所に入りました。ベレンデスはモダニズム建築や工業デザイン(インダストリアルデザイン)の発展に大きな影響を与えた建築家であり、グロピウスもベレンデスのもとでモダニズム建築を学びます。

モダニズム建築とは、20世紀に入り19世紀までのルネサンスに代表される様式建築ではなく、多様化する社会に合わせた新しい建築のあり方を指します。特に20世紀から建築において鉄やコンクリートという新しい素材が普及しました。
それらを使い、装飾よりも合理性・機能性を求めた建築、それこそがモダニズム建築でした。
そのモダニズム建築に最も大きな影響を及ぼしたと言われるのが、20世紀初頭にドイツで設立された団体「ドイツ工作連盟」です。
グロピウスはペレンデス、ヴェルデとともにドイツ工作連盟の活動にも参加しており、そのモダニズム建築の理念が、教育機関であるバウハウスにも引き継がれることになります。

モダン家具

合理性・機能性が追求されたモダン家具

バウハウス開校にあたり、当初は講師として多くの芸術家が集められ、教育方針も「表現主義」的なものでした。しかし次第にモダニズム建築の合理性・機能性を重視する教育内容へと変わっていきます。

ここでグロピウスが作り上げたのは、「総合芸術」を目指して当時のあらゆる分野の芸術を対象とし、授業内容を「基本」と「実技」に分け、それぞれに置かれた「マイスター」(マエストロ)が指導するというシステムでした。
どうでしょう? 冒頭にご紹介したドイツの職業訓練制度Ausbildung(アウスビルディング)と同じシステムなのです。
つまり現代のアウスビルディングの礎は、このグロピウスとバウハウスによって築かれたとも言えるのではないでしょうか。

しかしグロピウスもまた、バウハウスのマイスターとして重要なポジションにいた、画家であり芸術教育家であったヨハネス・イッテンと衝突します。
衝突の末、1923年にイッテンが去った後、グロピウスとバウハウスはより合理主義・機能主義を突き進んでいきます。
同時に、その合理主義・機能主義がバウハウスの運営に影を落とす要因になるとは、誰も予想していなかったでしょう――。

ヴァイマールからデッサウへ移転・最盛期へ

1925年、バウハウスはヴァイマールから北東へ約170km離れた、デッサウという街に移転することとなりました。

その要因はいくつかありますが、なかでもバウハウスが1923年の作品「ハウス・アム・ホルン」に代表されるような、合理主義に基づいた建築物やデザインを手がけていたことにより、共産主義的な思想を持っていると思われていたことは大きかったかもしれません。
第1次世界大戦終了後、敗戦国であるドイツは巨額の賠償金を課せられていました。国内の経済は大混乱に陥るものの、1920年代にはなんとか回復し始めます。
とはいえ賠償金を返済するには至らず、1923年には戦勝国であったフランスとベルギーが、賠償金の代わりにドイツのルール地方を占領。国内ではこうした戦勝国の行動に対し、ナショナリズムが高まり、極左勢力と極右勢力の対立が深まっていきます。

そんななかで迎えた1924年の選挙にて、バウハウスを支持してきた社会民主党が敗北します。勝利した保守政党は、バウハウスを共産主義者とみなし、資金援助も従来の半額までカットすることを決定しました。
グロピウスもバウハウス存続のために奔走したものの、状況を変えるには至らず。遂に1925年4月1日、デッサウへの移転を発表したのです。
バウハウスの移転先には、いくつかの都市が名乗りを上げてくれましたが、最終的に社会民主党が政権を握っているデッサウ市に決まりました。
デッサウへの移転に伴い、バウハウスは「国立バウハウス・ヴァイマール」から「市立バウハウス・デッサウ」へと名称を変更します。

バウハウス・デッサウ

バウハウス・デッサウ校

国立学校から市立の教育機関となったものの、バウハウスはこのデッサウの地において最盛期を迎えます。
もともと機械工業の街として栄えていたデッサウで、グロピウスらバウハウスのマイスターたちは地元企業と連携し、モダニズム建築に基づいた住宅と家具を次々と生み出しました。
グロピウスが考案した団地、バウハウス新校舎、マイスターの宿舎はドイツを代表する近代建築物となり、デッサウはそんな建築物を見ようと多くの人が訪れる観光地になっています。
工業デザインが庶民の生活を支え、街の発展に結びつく――グロピウスとバウハウスの理想が、このデッサウの地で実現したのです。

そして1928年、グロピウスはバウハウスの校長の座を退き、その任をスイス人建築家ハネス・マイヤーに譲ります。このマイヤーの時代に、バウハウスはさらに発展することになります。

ドイツの混乱とナチスの台頭

グロピウスがバウハウスを去った後、ドイツ国内の政治体制は混乱を極めます。
特に1930年に起こった世界恐慌が起こるとドイツ経済は破綻。失業者は年を追うごとに200万人、400万人、600万人と膨れ上がりました。
国会は極右勢力と極左勢力、双方からの攻撃に遭い、ヴァイマール体制は大きく揺らぎ始めます。そんななかで、ドイツではひとつの政党が勢力を伸ばしてきました。その名は「国家社会主義ドイツ労働者党」――あのアドルフ・ヒトラー率いるナチスです。

1919年に前身である「ドイツ労働者党」が設立され、翌年にヒトラーが党で台頭すると名称を変更。さらに1921年には党の議長となり、国粋主義を唱えるナチスは国民の支持を得て、1923年のフランスとベルギーによるルール占領を迎えます。
一度はヒトラーの投獄によって解散していたナチスは、1924年にヒトラーが釈放されたことで再結成。それまではデモや非合法活動も行っていたナチスでしたが、以降は合法的な政権獲得を目指し、ヒトラーの著書『我が闘争』が好調な売り上げを見せたこともあり、ナチスの支持はドイツ国内全体で高まっていきます。

ナチス

このように、グロピウス率いるバウハウスがヴァイマールで危機的状況を迎えながら、移転先のデッサウで最盛期を迎えるのと時期を同じくして、ヒットラー率いるナチスも政党として確立し、その勢力を拡大させます。
ともに1919年に誕生した、教育機関バウハウスとドイツ労働党――のちのナチスは違う道を歩みながら、1930年の世界恐慌を期に交わることになるとは、誰が想像しえたでしょうか。
それはまさにドイツの第一次世界大戦後の混乱と、第二次世界大戦へと向かう狂騒を象徴するような出来事であったのかもしれません。
後編ではバウハウスの最盛期から終焉という激動の時代について触れることにします。
<続く>

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